核武装

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『核武装論』当たり前の話をしようではないか」西部 邁


<核武装に現実味を感じていないのは日本人だけだ--蔓延する偽善的な平和主義に抗して老師ニシベが語る「核」への天下の正論>

まえがき

我が国における「核」の論議は、つまり日本列島を核兵器によって武装すべきか否かの話は、今のところ、空理空論の域を出ることができていません。なぜかといって我が国の世論は、それを率先している自称専門家の諸氏の意見を含めて、「核」にかんする理解において有理からかけ離れ、「核」に対する実践において逡巡を重ねているからです。この列島に流布されている「核」についての方針には筋の通らぬものが少なくないどころか、感情において大きな乱れすらむき出しにされています。それが核論議の現状なのです。そうであればこそ、軍事問題から遠いところに、さらには国際政治全般からすらはるかにかけ離れたところに位置しているはずの私のような(自称の)思想家が、ついにたまりかねて、核問題について一書を物さねばならなくなる次第だ、というわけです。

そんなことは、核議論そのものを封殺せんとする動きが、昨今、国会から新聞・テレビにまで広がっていることをみれば明らかです。たしかに、公の場でなされるものとしての言論は、なにほどかはセオリー(理論)であると同時にアクション(行為)でもあるのですから、言論という形での行為を差し控えよという政治的行動があっても不思議ではありません。なぜなら、「言論の自由」を権利としてふりかざすことができるのは、その言論が「権理」に、つまり公の場における「道理の権り」に沿っている場合にかぎられるからです。権理から逸脱することあまりにも明白な議論にたいしてなら、言論封殺があったとて驚くに当たりません。

しかし核武装の(道徳論における)是非や(政治論における)当否や(技術論における)可否についての議論は、まだその緒にすらついていません。そういって少しも過言ではないのです。日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」の「三猿の教え」は、真善美に真っ向から反するような理論や行為を警戒せよ、つまり偽悪醜から身を遠ざけよ、との謂いでしょう。しかし核議論はあきらかに偽悪醜に属していると断言できましょうか。もしそうだというのなら、「核」の超大国アメリカは偽悪醜の権化ということになります。そんな忌むべき代物を模範として国家建設をやってきたのみならず、それとの軍事的な「同盟」とやらに自国の「安全と生存」を託してきた、それが日本の戦後ということになります。そんな六十年余に及ぶ日本列島の年月はそも何であったのかというふうに、真善美の回復を希う気持ちが少しはわいてきて当然ではありませんか。

要するに核議論を封殺せよとの世論は、その問題についての「思考停止」を要求するものにほかなりません。なるほど「核」は、「唯一の被爆国民」であることを欺くやら誇るやらしてきたこの敗戦国民の、心身の核にまで突き刺さっておりました。その意味で、日本人の主観にとって「核」は凶器にも等しいものですから、その思考停止にも一理くらいはあるでしょう。しかし、北米大陸だけでなくユーラシア大陸にも、さらにはブリテン島やインド亜大陸や中近東地域にまで、「核」をたっぷりと溜め込んでいるのが現代世界です。この列島人に思考停止を許してくれるほど今の世界は安穏としたものではありません。正確には、現在世代の日本人にはそうした安穏を仮想している余裕が与えられているのかもしれません。だが、「国民」には我らの祖先も子孫も含まれるのです。祖先を裏切り子孫を見捨てるような思考停止をいつまでも続けてよいわけがないのです。

「核」への思考停止が祖先の残した「伝統の精神」に反するとわかれば、我々の精神は日本の国民精神から逸脱していることになります。そこに残るのは日本国民としてのいわゆるアイディンティティ・クライシスだけです。つまり「この列島人の固有の性格についての危機感」に我らの子孫が落ち込むということになるでしょう。子孫に残すべき「歴史の英知」を打ち捨てるも同然の所業、それが「核」についての我らの思考停止ということなら、我らは亡国の世代にみずからなりはてたということになります。子孫に継承させるべき精神を持たぬような「非国」の民の往生際は、途方もない虚無に包まれるに相違ありません。

いや、大いに皮肉な事態なのですが、かかる思考停止の状態が長期かつ広範に生じていればこそ、私のような「核」の門外漢にも、発言の機会が生じます。つまり「常識」だけを頼りにして「核」についての思考を試行してみる、という(道理の面での)権理も(自由の点での)権利も与えられるということになるのです。私のいうコモン・センス(常識)とは、社会という空間軸において現在世代の国民の根本精神にコモン(共通)であるような思考のことのみではありません。我が国の歴史という時間軸において国民精神の根本においてもコモンであると否応もなく思われる思考、それが常識なのです。思えば、「核」がその一例ですが、国家の根本規範にかかわるという意味で憲法の次元に位置する問題については、すべからく、「常識に問え」とのポスチュレイトつまり準則に従うべしなのです。というのも、少なくとも歴史感覚あるいは伝統精神の保存されているおかげて健全たりえている国民ならば、憲法とは各世代にわたる国民の総体の常識における根本部分を確認したもののこと、了解するはずだからです。

スペシャリスト(専門人)とは自分のスペク(眼にみえるアスペクトつまり、”側面”)にのみ執着する人間のことにほかなりません。しかし「核」は、大量破壊兵器であるがゆえに、自国民のであれ他国民のであれ、社会およびその歴史のおよそ考えうる全側面に深甚なる影響を与える問題なのです。そういう重要問題が、しばしば「軍事オタク」を思わせる風貌と物言いで「核」を論じる専門人にゆだねられてしまっています。ついでまでに「オタク」とは、物事の一側面のみにかんする関心が病的に高まっている人間のことで、スペシャリストと大差ない人たちのことです。しかしこれから必要なのは、「核」を専門人の屁理屈から国民の常識へと取り戻すことではないでしょうか。

その第一歩として、専門人は、一体全体いかなる根拠で、「核」という多側面の問題に言及できるのかと問うてみるべきです。彼らは「核」について単に論じているだけでなく国家の核政策という具体的な問題についてまで蝶々しています。彼らの「核」についての多弁とお節介は、実は、「核」の全体像に関する(思考停止をはじめとする)世論のムード(気分)と結託しています。たとえば、「核」に関する三猿主義に寄り添いつつ、「日本が核武装すればアメリカが核燃料を供給してくれなくなるので、原子力発電の必要上、”核”は論外」と断定する、それが専門人のやり方です。つまり、暮らしの現状に齟齬が生じては堪らない、という世論の気分に迎合するという方向で「核」についての専門知の断片をばらまいているのです。もちろん、世論にとてつねに少数意見があるものです。たとえば、「恐るべし、中国・北朝鮮の”核”」という世論のひそかな気分に乗じて、「世界の秩序は軍事力によって決まる、だから日本の核武装を急げ」と訴えるような専門人も現れるということにもなります。

それらの気分が常識の広さと深さを伴うものでしたら、世論の前に額づくべきでしょう。たとえば、世論において揺るがぬ気分として「核」への賛否が表現されているというのなら、いかなる言論人もその気分をおのれの知識の大前提に据えなければなりません。プレミスつまり前提のない知識はありえませんし、最も確かな前提は国民の伝統精神からやってくる常識なのです。しかし戦後日本の気分は、もっというと近代日本の気分は、夏目漱石がとうに見通したように、国民の歴史感覚から「内発」したものとはいえません。国家の外部からやってくる環境条件の変化に適応せんと努める、という形での近代化に明治維新以降の日本は励んできたのです。それを漱石は「外発的な近代化」とよびました。その過程が、この六十年余、途方もなく加速されたのでした。スペインの哲学者ホセ・イ・ガセットは(『スパインシス(無脊髄)のスペイン』のなかで)次のようにいっています。それは国民精神の背骨をなくした感の深いこの敗戦列島人にもよく当てはまるのではないでしょうか。

<外から受け入れた”文明”は、それを受け取る者にとって容易に命とりになる。なぜかといえば、外から受け入れた”文明”は--文化と違って--機械化された技術や人工的刺激や贅沢、あるいは国民生活のなかの浮ついた気分によって作られていく”奢侈”の総体であるからだ。>

核論議は、あるとしても、今や言論の奢侈品となっているのではないか、と思われてなりません。アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮といった核保有国にいにようされて茫然自失している、それが日本の現状にほかなりません。それが「戦後」のほぼ必然の到達点であることを、深く自省する方向での核議論が皆無なのです。アメリカニズム(とてもよぶべき技術主義的な文明)への適応を専らにしてきたこの六十年余の「戦後」は何であったのか、という根本の問題を省みることなしに、技術文明の山系の頂点をなす「核」について云々しても、むしろ有害だと私は思います。

私の手元には拠るべき常識がたっぷりある、と大言壮語したいのではありません。以下、(私の目算では)これからの二週間にわたり、毎日五時間くらいの「核」についての私の「思考の試行」が、常識という名の国民精神の岩盤に達するほどに深まるものであるかどうか、その成り行きを逐次報告してみるのが本書、ということなのです。

(2007年1月 西部 邁)


欧州の歴史が証明する「核には核」



【正論】平成国際大学名誉学長・中村勝範 2007/01/24、産経新聞

欧州の歴史が証明する「核には核」

■国辱を認識する精神が壊れている

≪核実験の威力をかさに≫

北朝鮮が核実験をする1カ月前に、北朝鮮は核実験すれば国際社会から主流国とみられるようになる、一時的に制裁されることもあるが失うものより得るものが大である、との論文を発表していた中国の学者がいた。復旦大学国際問題研究院の沈丁立副院長である(読売昨年10月3日)。北朝鮮への核実験のすすめを説いたものである。

核実験後の北朝鮮は沈氏の論文通りになった。日本、米国から経済制裁を受けているが、中国からはこたえるような制裁はない。

他方、昨年来の6カ国協議で証明されたが、北朝鮮は超大国米国を手玉にとり、協議を牛耳った。6カ国協議とは名ばかりで、実態は米国が一貫して拒否してきた米朝2国間協議に終始した。

北朝鮮は米国以外の中国、ロシア、韓国とも形式的ながらも2国間協議を持ったが、日本との2国間協議はなかった。核を持たず、作らず、持ち込ませず、その上に最近では核論議もさせず、核について考えることもまかりならんとの「非核5原則」(中川昭一自民党政調会長 本紙昨年12月20日)の日本が世界の「主流国」間の協議に顔をだすこと自体がナンセンスということである。協議の議長国中国も日朝協議を斡旋(あっせん)しなかったし、米国もなす術(すべ)がなかった。日本は北朝鮮のみならず、他の4カ国からも虚仮(こけ)にされたのであるが、われわれ日本人はそれに気づいていない。国辱を国辱と感じる正常な精神が壊れているのである。人間失格である。

(略)

≪サッチャー首相の決断≫

1979年12月、北大西洋条約機構理事会はソ連が1983年末までにSS20を撤去しないならば、われわれは米国製パーシングIIを配備すると決定した。
これに対しソ連は、もしもパーシングIIを西欧に持ち込めば、SS20は西欧を火の海にすると脅すと同時に、金とパーシングII導入反対の工作員を多数西欧に投入した。1983年、西欧の大都市で次々と数十万人から100万人を超えるパーシングII導入反対のデモと集会が展開された。ロンドンでも反対集会が燃え上がった。

6月9日は英国の総選挙であった。野党である労働党は、サッチャー首相はパーシングIIを導入しようとしているが、そうなればソ連の核攻撃を避けられないから、ソ連と話し合い、平和共存の道を選ぶと訴えた。

サッチャー首相はすかさず切り返した。核兵器を配備すれば核攻撃を受けるとの批判は歴史的事実に反する、日本が核攻撃を受けたのは、日本は核を持たなかったために、核の報復をする能力なしとの判断から安心して核攻撃された、と。

サッチャー首相の率いる英国保守党は1935年以来、かつてない勝利を博した。英国民も現実的理性的であった。英国についでイタリア、西ドイツにもパーシングIIは導入された。これらが突破口となり、冷戦は自由主義陣営の勝利へと大きく前進した。

以上の英国の歴史的事実は教えている。われわれが学ぶべきことはサッチャー的政治家を日本国民のリーダーとすべきであって、ソ連の恫喝(どうかつ)にいたずらに媚態(びたい)を呈する労働党的政治家を駆逐することである。

(なかむら かつのり)



核ミサイルと潜水艦12セットがあれば抑止力は万全


1.ミサイルは、東大宇宙研系の固体ロケットをほとんどそのまま用いることができる。
弾頭(真弾頭×1と複数の欺騙用デコイ)を750kg以下にできれば、地球の裏側までが射程となる。日本の技術では核弾頭は500kg前後にまとまる。地球引力地図、再突入体の設計など、必要な細かいノウハウも既に蓄積されている。

2.日本ではこれをSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)として運用するのが適切である。
このミサイルを各1基ずつ艦内に斜めに格納した通常動力型の潜水艦×12隻を整備し、内6隻を常時遊弋させられれば、米・露・中という3大核大国に対する日本独自の核抑止体制が完成する。12隻体制は4年あれば整う。

3.いかなる外国も固有の国体、すなわち権力関係を有するが、各国体において真の主権者は誰かを見定め、その「権力」に対し直接アプローチするターゲティング(核弾頭目標配分)を心掛け、予め公表する政策を採るならば、このわずかの報復核戦力でさえも、米・露・中3大核大国に対する核抑止は成り立つ。

4.以上の整備に要する金額は、かって政府がアメリカに命じられるままにポンと差し出した「湾岸戦争みかじめ料」(当時のレートで1兆6500億円)や、毎年の農業補助金(99年は1兆8000億円)より少ない、1兆440億円(ただし当時の物価。普天間基地移転費用はおそらくこれをはるかに超えるだろう)で済む。

5.最初の核ミサイルは1年、最初の数隻の運搬潜水艦は2年で取得できる。


(SAPIO誌2000年1/26・2/9号より)



アメリカは日本の核武装を望んでいた!


・「沖縄返還で米国は日本の核武装を要請した

 「日本の核武装をアメリカは許さない」
この神話は(朝日新聞などに)捏造されたデマゴークだった…。

それどころか、日本の核武装と引き換えに沖縄駐留米軍の撤退をニクソンは提案したという…!

撃論ムック『ぼくらの核武装論』オークラ出版の88p~95pに片岡鉄哉氏(スタンフォード大学・フーバー研究所 元上級研究員)が書かれている論文
「日本の核武装論は歴史的必然だ『日本核武装は不可抗力なり』」は衝撃的だ。

”日本は米国からの核武装要請をはねつけ、
その代償として莫大な経済的ツケをはらわされてきた。
いつまで奴隷の地位に甘んじるつもりなのか”

”核武装はただ生存の為のものだけではない、国家の名誉を守るものだ”


・「ニクソン会談で日本の核武装を持ちかけた事があったが佐藤総理はそれを断った事がある。
キッシンジャーなども日本の核武装を前々から予想しているが、極東の軍事バランスを考えれば、
アメリカの国益から考えても、日本の核武装を認める可能性はあるのだ。


・「ブッシュ大統領が一昨年11月に突然、京都に小泉総理を訪問し、両人は金閣寺で大いに意気投合した。京都でブッシュは日本核武装を要請したのだ。(片岡鉄哉、「ブッシュは日本核武装を認めた」、「Voice」07年2月号を参照。)

ブッシュが核武装を求めた理由の一つは、日本が従順に北朝鮮の人質に甘んじることで、北朝鮮をアメリカの武力恫喝から守っていることだ。
日本を守るために、アメリカは手が出せない。日本が核の傘から出ないと、際どい交渉は不可能なのだ。

更に昨年、ブッシュはニューデリーを訪問し、米印核エネルギー協定を締結し、あわせて対中包囲網を固めたのだ。ブッシュの対日提案の噂が北京にまで浸透するのを待って、安倍総理は(1)胡錦濤を訪問し、(2)国会における核武装議論に火をつけた。

安倍訪中の大成功は核の脅しが如何に有効かを物語っている。
核武装の地位を手にすれば靖国参拝への反対は霧散するのだ。

これまで中国は日本との外交関係を戦略以下(sub-strategic)と定義していた。
戦略的関係とは核武装した大国間の関係を示すのだ。ところが07年1月26日付けの朝日新聞は、「日中次官級協議『戦略対話』に格上げで合意」と報じている。中国が格上げを要請してきたのだ。


・「ブッシュ政権で大統領補佐官を務めたデービッド・フラム氏がニューヨーク・タイムズ10月10日付に発表した寄稿論文での主張である。
フラム氏はこの論文で北朝鮮とその背後にいる中国を厳しく非難していた。北朝鮮が米国をはじめ国際社会をだまして、核実験に踏み切り、
しかも中国はその冒険を阻止できる立場にあるのに止めなかった、と糾弾している。だから米国は北朝鮮と中国にそんな危険な挑発行動への代償を払わせるために
一連の断固とした措置をとるべきだ、と主張している。

 フラム氏はそのなかで日本について次のように述べていた。

 「米国は日本に対しNPTを脱退し、独自の核抑止力を築くことを奨励せよ。第二次世界大戦はもうずっと昔に終わったのだ。
現在の民主主義の日本が、台頭する中国に対してなお罪の負担を抱えているとするバカげた、見せかけはもうやめるときだ。核武装した日本は中国と北朝鮮が最も恐れる存在である」。

 「日本の核武装は中国と北朝鮮への懲罰となるだけでなく、イランに核武装を思いとどまらせるという米国の目標にも合致する。
日本の核武装の奨励は、他の無法国家がその地域の核の均衡を崩そうとする場合、米国とその友好諸国がその試みを積極果敢に正そうとすることをイランに知らしめることになる。
米国はイスラエルの核攻撃能力を高めることもできるのだ」。

(アメリカは日本の核武装を望んでいた! 草莽崛起より)


サッチャーが説く核兵器有効論


1990年代初頭、英首相を退任したマーガレット・サッチャーはワシントンを訪れて、外交政策のスピーチを行った。

スピーチの後の質疑応答で、あるアメリカ人が、「すでにソ連は崩壊し、冷戦は終わった。それなのになぜ、最近のイギリス政府は、次世代の核兵器システム整備のために多額の国防予算を注ぎ込んでいるのか?」と質問した。彼の質問のトーンは、イギリス政府の核政策に批判的なものであった。

これに対してサッチャーは、以下三つの理由を挙げて、なぜイギリスが最新の核抑止システムを整備しておく必要があるのか、という説明をした。

(1)1947~1991年の冷戦期に、米ソが直接、軍事衝突しなかったのは、核兵器のおかげてある。
核兵器の破壊力があまりにも強いため、米ソ両国は、彼らが支配する第三世界の衛星国に代理戦争させることはあったが、核武装した米ソ同士の直接の軍事衝突は注意深く避けた。
この事実を見ても、核兵器に非常に強い戦争抑止効果があることは明らかだ。
もし核兵器が存在しなかったら、米ソ両国は冷戦期に正面衝突して、数千万人の戦死者を出すような大戦争が起きていたのではないだろうか。

(2)イギリスは中型国家であり、その軍事予算は限られている。
この限られた予算を使って最大限の戦争抑止効果を得るためには、通常兵器に投資するよりも核兵器に投資したほうが、高い抑止効果を得られる。
核兵器への投資は、限られた英国軍事予算の生産的・効率的な使い方である。

(3)現在の国際社会は、核兵器を持つ国が支配している。
そのことが良いことか悪いことかは別として、それが国際政治の現実である。
もしイギリスが常に最新型の核抑止力を整備しておかなかったら、イギリス政府は国際社会で独立した発言力を失ってしまう。

このように語るサッチャー女史の態度は、堂々としたものであった。
彼女はにこやかに笑みを浮かべ、自信に満ちた声で、「核兵器を所有することが、いかにイギリスの国益に貢献してきたか。そして、イギリス政府の核兵器保有政策を批判する者が、いかに間違った感情的な議論をしてきたか」を熱心に解説した。



米国から出た初めての奨励論 古森 義久氏


◇今までの「日本核武装論」は「オオカミがくる」式の警告
「北朝鮮が核兵器を持つと、日本も核武装に走る!?」――という予測は、だから1990年代からあったのである。しかしこの「予測」は一貫して、「オオカミがくる」式の警告であり、カードだった。

◇なによりも米国が日本の核武装に反対だった
米国はこのNPTの最大の推進国であり、日本に対しては日米安保条約に基づく二国間同盟で「核の抑止力」を提供している。その代わり日本は独自の核は持たないということが相互の了解である。

◇NYタイムズに掲載された政策提言としての「日本核武装論」
ブッシュ政権で大統領補佐官を務めたデービッド・フラム氏がニューヨーク・タイムズ10月10日付に発表した寄稿論文での主張である。フラム氏はこの論文で北朝鮮とその背後にいる中国を厳しく非難していた。北朝鮮が米国をはじめ国際社会をだまして、核実験に踏み切り、しかも中国はその冒険を阻止できる立場にあるのに止めなかった、と糾弾している。

フラム氏はそのなかで日本について次のように述べていた。

「米国は日本に対しNPTを脱退し、独自の核抑止力を築くことを奨励せよ。第二次世界大戦はもうずっと昔に終わったのだ。現在の民主主義の日本が、台頭する中国に対してなお罪の負担を抱えているとするバカげた、見せかけはもうやめるときだ。核武装した日本は中国と北朝鮮が最も恐れる存在である」。

◇日本が信頼できる同盟国だからこそできる議論
フラム氏はその他に以下のような主張をも述べていた。

「米国にとって最も危険な敵の核兵器取得が、米国にとって最も頼りになる同盟国の核兵器取得という結果を招くことを北朝鮮や中国に知らしめるべきだ」。

「今後の米国の戦略目標は、第一は北朝鮮の核の脅威を受ける日本と韓国という同盟国の安全を強化すること、第二は北朝鮮に核武装への暴走の代償を十二分に払わせ、イランへの警告とすること、第三は中国に懲罰を加えること、である」。

「日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールをNATO(北大西洋条約機構)に招き入れる。NATOはいま域外諸国の加盟を求めており、そうした加盟は中国への大きな抑止となる」。

「日本や台湾のミサイル防衛を大強化するとともに、北朝鮮への人道援助を全面停止する。韓国にも北への援助の停止を求める」。

(『第33回「日本に核武装」― 米国から出た初めての奨励論』国際問題評論家 古森 義久氏より)


資料


  • 最終更新:2014-06-06 14:45:34

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