支那に「話せば分かる」は通用しない。


支那人というのは自分より弱いと思う相手には強圧的な態度で挑み、とことん弱みに付け込んでくるが

自分よりも強いと思う相手に対しては挑発などはせずおとなしくなる性質がある。


1927年3月24日に蒋介石の北伐軍が南京に入城した際に兵士が日本や米、英、仏、伊などの

外国領事館や居留民を襲撃し暴行、凌辱、虐殺を行ったものである。

この事件には支那兵と多くの市民も加わった、彼らによる外国人への暴行、凌辱、虐殺は凄惨を極めた。

外国領事館や居留民への攻撃は国際法上許されるものではなく、米、英、仏は海軍の軍艦を動員し、

南京市内への200発にも及ぶ砲撃を行うとともに陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。


だが、日本の対応は違った。米国や英、仏などが砲撃を行い毅然とした鎮圧を行ったにも関わらず

日本は無抵抗を貫いたのだ。当時、国際協調、内政不干渉を掲げる幣原喜重郎外相が支那兵への反撃を許さなかった。


日本が反撃せず無抵抗を貫いたため、多くの日本人居留民が支那人によって暴行され、30人を超える婦女が凌辱を受けた。

鎮圧・治安維持のために米国や英国から共同出兵を求められても幣原はそれを拒否したのだった。

幣原としては、反撃をして中国との軋轢を生じさせるよりも「支那を刺激するな」とばかりに無抵抗により事態の鎮静化を

図ろうとしてのであろう。だが、相手の弱みに付け込み、自分より弱いと思う相手にはより横暴傲慢になるのが支那人である。

結果、支那の外国への排斥、挑発の矛先は毅然とした対応をした米国や英国から

無抵抗だった日本へ向けられるようになったのである。支那は弱腰の日本の租借地を襲うことに味をしめたのだ。

南京事件の10日後には日本の租借地であった漢口で日本人居留民や軍人が支那人に襲撃される漢口事件が発生した。

この事件で多くの日本人が虐殺、凌辱されたほか多くの商店や工場も破壊された。

支那人は日本を見下すようになり、これ以降多くの武力挑発や日本人への襲撃、虐殺を起こすようになった。

過激化した日本への排斥や挑発が後の満州事変や支那事変の一因となったことは言うまでもない。

支那への安易な配慮や妥協、友愛、譲歩、宥和主義等は返って支那を図に乗らせることになる。


支那に「話せば分かる」は通用しない。



  • 最終更新:2014-07-27 15:04:59

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