コミンテルン

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コミンテルンの陰謀


日本義塾塾長 太田 龍

田母神航空自衛隊幕僚長が外部に発表した論文は、日本は、コミンテルンの謀略によって中国との戦争に引きずり込まれた。

日本の対米戦争にも、コミンテルンの陰謀の介入あり、と述べていると言う。

防衛省と日本政府は、ただちに田母神航空幕僚長を解任した。

日本政府、日本のマスコミ、関係諸外国は田母神論文を弾劾した。

けれども、彼らは、「コミンテルンの陰謀」については、なにも語らない。

コミンテルンの対日謀略についての、もっとも重要な文献は、昭和十八年の国際政経学会機関誌「猶太研究」に公表された、同会専務理事、増田正雄氏の、日支闘争計画書についての論文である。

一九一七年十月、ロシアでボルシェビキ共産革命が勃発すると、満洲駐屯日本陸軍諜報機関は、反共産系ロシア人団体などを通じて、ただちに情報収集工作に着手した。

一九一八年秋、「日支闘争計画書」について、という驚くべき情報がロシア語新聞に掲載されていることを知って、出先機関はこれを東京の陸軍中枢部に知らせている。

その概要は、一九一八年九月十七日、モスクワにおいて、ソ連共産党と政府代表、コミンテルン代表、世界ユダヤ人組織の代表、イルミナティの代表が集まって、

「日支闘争計画書」を採択した。

日本と支那の全面戦争を演出する。

次に、日本と米国の全面戦争に持って行く。

最後に、ソ連が介入して、日本と支那の同時革命、つまり、共産化を達成する。

つまり、ソ連は労せずして日支両方を手に入れる、というのである
(渡部悌治著『ユダヤは日本に何をしたか』九十六頁)。

しかし、当時(大正八、九年)、日本の政府と軍部中枢はこれを荒唐無稽の怪文書として一顧だにしなかった、と。

果してそうか。この判断は正しかったか。

この文書を、昭和十八年(一九四三年)に検証した当時の有志は、大正九年以降の日本をめぐる情勢の推移が、このコミンテルンなどの「日支闘争計画」に示されていた通りの方向に、日本が誘導されつつあることに気付いて、驚愕したという。

そしてこの「日支闘争計画」の実施機関は「太平洋問題調査会」(英語原文はIPRインスティチュート・オン・パシフィック・リレーションズ=太平洋関係研究所)であるという。

このIPRは、日本人の親英米リベラリストをその組織の中に取り込み、その日本支部は「太平洋問題調査会」と称した。

日本代表は新渡戸稲造、松岡洋右、鶴見祐輔ら。

西園寺公望老公の孫西園寺公一はその有力な工作員である。

西園寺公望、牧野伸顕(大久保利通の息子。吉田茂はその娘を妻とした)は、このIPRの看板として利用され、コミンテルンの対日工作の表面に立てられたという。

当時の日本の国家中枢にまで打ち込まれていたコミンテルン工作。

この背景がなければ、ゾルゲ、尾崎秀実のあの驚くべきスパイ工作の成功も不可能であったろう。

太平洋問題調査会について、もっとも確実な歴史的記述は、キャロル・キグリー教授の、「悲劇と希望(Tragedy and Hope)」という一九六六年に出版された約千三百頁の二十世紀前半の国際政治外交史の学術書である。

キグリー教授は、れっきとした米英アングロサクソンの体制内エリートであり、権力中枢の秘密情報に通じているインサイダーである。

キグリー教授は、この太平洋問題調査会がロンドンシティとニューヨークウォール街の金融寡頭権力体制の重要工作機関であり、その資金は、主としてロックフェラー財閥によって供給されていたことを論証している。

資本主義の最高司令センターたる米英金融権力の″奥の院″が、資本主義のみならず共産主義陣営をも支配下に置いているとは奇々怪々である。

そんなことはあり得ない、と、常識的には考えられるであろう。

しかし、そもそもこの常識が問題である。

世界的古典とされているアントニー・サットン教授の著作『ウォール街とボルシェビキ革命』(一九七四年刊)。(未邦訳であるが、近日、面影橋出版から邦訳刊行の予定)は単なる噂話や推測でない。

明確な事実証拠にのみ基づいて、ウォール街が世界共産革命の司令部であったことを論証している。

(元日本革命的共産主義同盟委員長)

(沖縄県民斯ク戦ヘリより)

資料


  • 最終更新:2014-05-29 15:07:56

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